オンデマンド印刷がここまで昇華した
はじめに
伊達一穂さんは、九州大学芸術工学部環境設計学科の学生(当時)です。アジア建築新人戦、福岡デザインレビューなど、さまざまな建築設計コンテストの受賞歴があり、将来が嘱望される建築家の卵です。
その伊達さんから「卒業に際して自分のポートフォリオを作りたい」と依頼をいただき、この本を作ることになりました。
しかし、いくら将来有望とはいえ伊達さんはまだ学生の身分です。何十万円という印刷費を簡単に捻出できる立場ではありません。かといって、ポートフォリオはそれなりに上質な物を作りたい。そこで、河内屋が持つ「格安な予算で、十分美しい本を作るノウハウ」を使って、本を制作することになりました。
ヨーロッパの絵本を思わせる豊かな色彩
伊達さんが必要とする本の部数はわずか3冊。上製本ハードカバーをつけて、表紙には細い線画でバーコ印刷を施したいという凝った要望です。河内屋に来るまえにほかの印刷会社で見積もりを取ったところ、「3冊でも30~40万円はかかる」とのことでした。
ご存じのとおり、本はある程度の部数を発行することを前提としています。部数が少ないからといってコストが極端に下がるわけではなく、むしろある程度の部数を刷って1冊あたりの単価を下げることを考えるのが一般的です。また、30~40万円という見積もりも適正な金額かと思われました。むしろ、かなり良心的な価格でしょう。
そこで、河内屋では「3冊なら手製本にしたほうがいい」と提案しました。また、見開きの図案が非常に多いため、ノドまでフラットに開ける「PUR製本」をすすめました。
PUR製本とは、PUR(Poly Urethane Reactive Hot-melt Adhesive)というポリウレタン系の接着剤を使った製本です。強度が高く柔軟な接着剤で、本を180度開きっぱなしにして置くことができ、そのような開き方をしても本が壊れにくいというメリットがあります。また、PUR製本は、小ロットでも対応できますのでコスト面でもメリットがあり、今回のポートフォリオには最適だと思われました。
次に印刷です。
3冊の本を作るために製版したのでは、コストがかかりすぎます。元々低予算の案件でもあり、選択肢としてはオンデマンド印刷しかないように思われました。
しかし、問題は印刷クオリティです。
オンデマンド印刷機は長足の進歩を遂げており、鮮やかな発色が可能になっています。とはいえ、オフセット印刷に比べれば、色再現性が低い、デリケートな色調が表現しにくい、自然な発色が難しい、使用できる用紙が制限される、表現しにくい色がある、広い面積のベタ・網掛け・グラデーションではムラが出やすいなど、さまざまな課題が克服できていないことも事実です。
伊達さんは建築家の卵であると同時に、写真のようにヨーロッパの絵本を思わせるようなすばらしい色彩感覚の持ち主ですので、今回のポートフォリオは彼の絵が大きな魅力になると思われました。
この色彩を、果たしてオンデマンド印刷で再現できるのか。それが今回の案件の大きなテーマとなりました。
避けて通れないオンデマンド印刷の潮流
オンデマンド印刷は、そのスピードとコストの安さから、印刷業界でのシェアを着々と伸ばしてきています。前述のとおり、クオリティでいえばまだオフセット印刷には及ばないのですが、少部数でも対応できること、印刷データの差し替えが容易なこと、極端な短納期に対応できることなどのメリットが非常に大きいのです。
また、従来のオンデマンド印刷では「人間の肌が肌色をしていない」「食べ物の写真を刷ると、シズル感が得られない」などの大きな問題もありましたが、新しいオンデマンド印刷機はこうした問題を徐々に解消してきています。
河内屋が目指す印刷技術の本流かどうかは別として、オンデマンド印刷にも大きな需要がある以上、印刷会社としてオンデマンド印刷にも対応する必要がある。しかも、河内屋が手掛ける以上、ほかのオンデマンド印刷専門の会社よりも印刷クオリティではっきりとわかるアドバンテージを確立しなくてはならない。そうした思いから、河内屋も以前からオンデマンド印刷については研究を重ねてきました。
その結果、「こういう色を表現したいならこの紙」という用紙を選択するコツもわかりました。例えば今回のポートフォリオは、適度にクリーム色を帯びている「ヴァンヌーボ」という紙を選んでいます。オンデマンド印刷は全体的に冷たい感じの色に転びやすいので、独特の雰囲気を持ち、暖かみが感じられるヴァンヌーボが最適だと判断したのです。
そして、オンデマンド印刷機のカラーマネージメント(原稿の色を忠実に再現するためのカラーマッチング技術体系)も河内屋なりに構築することができました。そのカラーマネージメントに沿って、「この本の中で特に忠実に再現したいページはどれですか?」という確認をお客様に取り、そのページが忠実に再現できるよう、数パターンのプロファイル(色再現のための補正データ)を作りました。
もちろん、本来は全ページのプロファイルを作るのが理想なのですが、そうすると本全体を通した色調の統一感が損なわれやすいこと、そして時間とコストがかかりすぎることから、現時点の河内屋ではこのような方法を取ることが多くなっています。
今回のポートフォリオも、重要なページに対していくつかのプロファイルを提供しました。
絵のページ、図面のページ、写真のページ。それぞれに求められる品質をクリアしながら、全体の統一感も崩さない。そうしたバランスを取るのが特に苦心した点です。
人材に対する投資。そして技術の確立
伊達さんから受け取った印刷代は、全部で50,000円程度です。これは手製本の作業代とオンデマンド印刷の実費で、儲けも何もない原価です。厳密には、色補正などの作業時間を考えると若干の赤字でしょう。もちろん、提供したノウハウやコストを下げるための工夫や努力の対価はいただいていません。
では、なぜこのような儲けにならない仕事を請け負ったのかというと、1つは伊達さんの作品があまりにすばらしかったので、「彼の将来に対する先行投資をしたい」と思ったからです。
当社には、多摩美など多くの芸術系の学生が、ポートフォリオの印刷を頼みにきます。何でも受けるというわけではありませんが、作品を見て、そこに何か熱いものやすばらしい可能性が感じられれば「協力してあげたい」という気持ちになります。
そういう学生が世の中に出て、さまざまな分野で活躍してくれれば、私たちも彼らの活動を通じて少しでも社会貢献ができたと思うのです。また、地味ではありますが、そうした貢献を継続することが宣伝にもつながっていくのではないでしょうか。
「どんな芽が出るか出ないかわからないが、それでもたゆまず種を蒔き続けることに意味がある」
私たちはそう信じています。
2つ目の理由は、「課題克服の知恵」を磨くためです。
例えば、このポートフォリオの表紙の線画をシルクスクリーン印刷で表現したとします。この表紙にふさわしい厚盛りのシルク版を作ると、それだけで30,000円くらいの原価がかかってしまいます。そんな予算はありません。しかし、バーコ印刷で内製化すれば、少なくとも外注費は発生しないのです。
バーコ版はそれほど広い面積の物は作れませんが、尺の長いものは出力できるのです。長尺のバーコ版を作って3冊だけ加工しました。こうした知恵は現場で生まれるものですから、現場のセンスを研ぎ澄ませるためには、時としてこういう「課題」を与えられることが必要なのです。今回の場合は「低コスト」という課題を、このような形でクリアすることができました。
また、河内屋にはまだ若い社員が多いのです。彼らも印刷クリエイター(またはその卵)ですから、日々の業務に埋没して感性を鈍らせることがないよう、学生や若いクリエイターと交流することで新鮮な刺激を受けてほしいのです。これが3つ目の理由です。
想像とは古い固定観念を捨てること
最後の、そして最大の理由は「河内屋に依頼すれば、同じオンデマンド印刷でも街のコピー屋さんに頼んだ物とはまったく別次元の印刷物が作れる」という評価を確立したいというものです。
印刷関係者からは、「オンデマンド印刷は安かろう悪かろう」「オンデマンドなんてこんなものだ」という声がよく聞かれます。しかし、それは違うと思います。もちろん、まだまだオフセット印刷とは品質面で差がありますが、現実にオンデマンド印刷は全印刷物の中で着実にシェアを伸ばしています。つまり、オンデマンド印刷にはニーズがあるのです。
ニーズがあるものに「安かろう悪かろう」というレッテルを貼って放置しておくのは、印刷業者として間違った姿勢ではないでしょうか。「オフセット印刷には及ばずとも、オンデマンド印刷はオンデマンド印刷で、このように使えばここまでできます」という、最大限の成果をお客様に提供するべきだと思うのです。
また、今回の伊達さんのポートフォリオのケースも、「低予算」という課題を克服するために、さまざまな新しいアイディアや工夫が生まれました。予算がなければないなりに、品質が及ばなければ及ばないなりに、「では、どうすればいいか?」と考えるのが私たち河内屋のスタイルです。
もちろん「オンデマンド印刷で、どんな印刷物でもオフセット印刷に負けないものを作ります」などとは言いません。しかし、このポートフォリオを作る過程で、「内容や条件によってはオンデマンド印刷でも十分鑑賞に値する作品が作れる」という確信がつかめました。
また、「オンデマンド印刷の特性を活かして、オンデマンド印刷ならではの表現も可能ではないか?」という可能性も感じています。 創造において最も障害となるもの。それは古い固定観念です。そして、ネガティブな決めつけも弊害以外の何物でもありません。
私たち河内屋は、印刷手法の違いや予算の多少などにとらわれず、与えられた条件の中で最良の結果を求めるクリエイター集団であり続けたいと思っています。このポートフォリオは、こうした基本的な姿勢を再確認するためのすばらしいテストケースとなりました。